十一月二日。深夜二時。
尾見入海岸から四百メートルほどの所に佇む古い一軒家で、湊 琥太郎は青白く発光するパソコンの画面を睨みつけていた。
「──くそ。どこだ、このバグ……」
エンターキーを叩く音が、静寂な部屋に虚しく響く。彼は冷めかけたブラックコーヒーを一気に煽り、苦味とカフェインで無理やり覚醒を維持する。
焦燥感はピークに達していた。納期、品質、そして得体の知れないエラー。
だが、この切羽詰まった状況の中でも、琥太郎は今の環境に満足していた。
かつては都心の狭苦しい箱に高い家賃を払い、すし詰めの満員電車で出勤し、日付を超える残業に魂を削っていた。それに比べれば、祖父が遺し、今は誰も住まなくなったこの海辺の家は、まさに楽園だ。家賃もかからず、誰にも邪魔されないフルリモート生活。
窓の外から、ザザン、ザザン……と潮騒が聞こえてくる。
「あー、だめだ。頭を冷やすか……」
琥太郎は椅子を蹴るように立ち上がり、スマホだけを掴んで外へ出た。
「うー、さぶっ」
外気はひんやりとしていて、火照った頭には心地よかった。
徒歩五分。防風林を抜け、暗い海が広がる。
琥太郎は深く息を吸い込み、そして重たく吐き出した。
「はぁぁ………」
見渡す限りの闇と海。
観光地でもないこの海岸は、昼夜問わず人通りもほとんどない。
寄せては返す静かな波の音だけが、鼓膜を支配する。
(都会って、静かな時間帯でもうるさかったんだな…)
独り言を胸に、何気なく海を見渡した。
遠くの灯台から放たれた光が、規則的に回転し、波打ち際を一瞬だけ切り取る。
その瞬間、琥太郎の視界に何かが映った。
「……っ?!」
喉の奥で空気が凍る。見間違いかと思い、目をこすって再度凝視する。
(……子供がいる)
十数メートル先の波打ち際。濡れた砂の上に、小さな影がうずくまっている。
思考が停止した。 深夜二時。人気のない海。
こんな場所に子供がいるなど、論理的にあり得ない。
幽霊か、それとも疲労が見せる幻覚か。関わりたくないという本能的な恐怖が足を引く。
しかし、次の瞬間、風に乗って微かな音が届いた。
「う、ぅ………けほ、けほっ」
(…おいおい、勘弁してくれよ……)
琥太郎はスマホのライトを点灯させ、震える小さな背中へと近づいた。
第一章 おわり
